自分が主役

前回の日記から

次は何を書こうかなぁと考えていましたが

特に降りてこなかったので

 

今、パソコン開いて思いついたこと

書いてみようと思います。

 

 

前回の日記を読んでくださった方が

「昔からKIKUさんは今のような考え方だったのですか?」

と質問してくださいました。

 

今のような考え方というのは

ここ最近書いている日記をご参照いただいて。。。。

 

自分への信頼を保つ工夫

不自由な自由

自分とは何か

 

どうかなぁ〜

昔からこんな考え方してたっけな?

って思い出してみました。

 

 

わたしが高校生の夏休みに

仲の良かった友人と

青春18きっぷで秋田まで旅行したことがあります。

 

川沿いの土手で何気なく会話をしてました。

 

その時に、わたしが友達に

「もし、わたしの人生が終わったらこの世の中も

パタっと幕を閉じて終わるんだよね〜」

 

って言ったら

 

友達が

「は?!なにそれ!」って驚いて

「この世の中、自分が主人公みたいなこと言っちゃってるの?!」

って言われました。

 

「え?!違うの?!」

と思ったことを思い出しました。

 

わたしは、みんな同じこと考えてると思ってたのです。

 

主人公って言うと

大げさでピンと来ないかもしれなけど

映画やドラマのような

壮大なシナリオや舞台で

喜劇やら悲劇やらを演じている主人公って言う意味じゃないんです。

 

なんと言うかな

自分の人生だから

人生を物語としたら

自分が主人公でしょ。ってことです。

 

これは、その高校生の時に思いついたことじゃなくて

それまでも、今も

ずっとそう思って生きてます。

 

もちろん、わたしが死んでも

この世の中はそのまま存続しますし

誰も困らずに明日も明後日も問題なく来ます。

 

でも、わたしの人生が終わったら

今、ここで知覚している自分が

失くなるから

やっぱりパタッと幕は閉じるのです。

 

そんな気持ちで今も生きてます。

 

何が言いたいかと申しますと

未来も現在も過去も

起きることほとんどのことは

自分が望むと望まないと関係なく

自分の責任だということです。

 

すごく試練がやってきた時でさえ

「これは、わたしの人生に意味があるのだ!」

とか 立派な人の考え方みたいに思うわけじゃないんですが

良いことも悪いことも

意味があるっちゃあるし

無いっちゃ無い。

 

だけど、どう感じるか

どう対処するかは自分で決められるので

そこの舵取りは自分の責任だという様なことが言いたいのです。

 

一度、30代半ばで

会社員を辞めて

アーユルヴェーダの学校に通ったことがあります。

 

わたしはカウンセラーとかセラピストとかに

特別なりたかった訳ではなくて

ただ勉強したかっただけだったのですが

カリキュラムの中に

カウンセリングの授業がありました。

 

1年間修了するとライフアドバイザーみたいな

資格が取れるコースだったからかな。

 

そこで講師の方が

『自分の人生で辛い経験をしていないと

他の人の辛さを理解してカウンセリングすることは難しい』

とおっしゃってました。

 

クラスメイトだけじゃなくて

それまで出会った人で本当に辛い人生を送っていた人の

話を聞いたりして思うに

わたしは本当に人生で辛い目にあったことがありませんでした。

 

講師の方の観点から見ると

わたしはカウンセラーに向いてないと相成ります。

 

今でもそうですが

これまで『死にたい』と思ったことは一度もありません。

※出産の時に『死にそ〜』と思ったことはあります。

 

でも、

 

「はいはい、あんたは幸せ者ね」

って単純な話ではなくて(そうだけどw)

 

講師の方がおっしゃったことは一理あるのですが

 

もし比べられるとして

世の中で一番辛い経験をしている人が

2番目以下の辛い経験をしている人のことを

理解できてアドバイスできるって考えるほうが

おこがましくないかなぁと思ったのです。

 

 

「わたしの事なんて誰も理解してくれない」

「あなたは、わたしより◯◯だから理解できないはずよ!」

◯◯はお好みで

「美人」「お金持ち」「恵まれている」

「幸せ」なんでもどうぞ。

 

って言う人がいますけど

本当にそうだなと思います。

 

しょせん人のことは人のことです。

自分のことは自分で決めるのです。

 

それでも、壮絶な人生の人が書いた本を読んだり

ドキュメンタリー見たりして

「自分はまだマシだ」だなんて浅はかな捉え方するのも

なんか違います。

 

そうじゃなくて

何か起こった時に、どう捉えて

どう対処したかが学べるから

意味があるんじゃないかと思うのです。

 

今の環境に文句があって

例えば、会社や上司の愚痴を言う人がいますが

わたしは、会社を辞めたくなったら

さっさと辞めました。ただ辞めればいいと思います。

 

そうじゃなければ、文句言わないで済むように

何か対処するのが良いかなと思う。

 

少し位の文句は言いますよ、そりゃ。

でも ずーっと言ってる人見てると

 

「この会社に入るって決めて

今ここにいるって決めているのは自分」なのに

 

職場や上司の文句言ったりするのって

 

「自分の選択が間違ってた」って

暗に言ってることなるので恥ずかしくないのかなぁって思っちゃう。

 

偉そうに言ってますが

もし自分がその様なスパイラルに入ったら

「自分で決めた」という点に立ち戻って

解決していく努力はしたいなと思っております。

 

フランクルの「夜と霧」で

収容所の過酷な環境で死んだほうがマシと思うような時でさえ

「夕日が綺麗だな」と思う

ある事象に対してとる自分の反応は

残虐なナチスの高官にも奪えない自由である

 

「あなたが経験したことはこの世のどんな力も奪えない」

 

と言った内容が出てきます(正確じゃないかも。。。)

 

わたしが一番好きな箇所です。

自由ってそういう事ですよね。

 

ただ自由って言っても

噂や他の人の不遇や不幸をネタに

自分の幸せの価値を位置づける事ほど

安っぽく下品な事はないですね。

 

 

わたしが付き合ってる

大学時代の友人やお友達と呼べる人は

似たような感覚の人が多いです。

 

旦那さんの悪口言ったりする人少ないです。

旦那さんと結婚したのは自分だし

今あるほとんどの事って自分が選択してきたものの結果と思います。

 

今までの選択が全て正しかったとは思ってないのですが

良かったと思うことも悪かったと思うことも

そのままでは良くなくて

ずっとずっと改善してより良くしていくことが

生きていくことの学びなのかなぁと。

 

 

これは綺麗ごとでもあります。

 

虐待を受けている子供が

その環境を選択してるかと言われたら

そうではない。

 

現実ではどうにも出来ないこともありますし

理不尽なことばかりの世の中ではあります。

 

それでも、フランクルの言う自由はやっぱり

人間にはあって

我々は自分の人生の主役なんですよね。

 

 『やりたいと思ったら遅すぎることはない』

 

とかも言いますね。

 

じゃあ 

『わたし高校野球が好きだから

今から甲子園に出たい!』って言っても無理です。

 

40代半ばのオバサンがなかなかどうして甲子園球児にはなれん。

 

でも『甲子園に出たい』って掘り下げてみると

青春して、仲間と泥だらけになって

練習して優勝目指したい

と言った時に得られる感動体験に似たものは

これからでも体験できるかもしれません。

 

それは高校生でなくても甲子園でなくても野球でなくても良いわけだから。

 

そんな感じで

日記の読者さんの質問から

ちょっと振り返って思ったことを書いてみました。

 

雨ばっかりで

緊急事態宣言も再発されて

本当に自分じゃどうにも出来ないことばっかりだけど

でもでも

自分がどう選択して

この人生を舵取りしていくかは

主役のわたしが決めていきたいなと思うわけです。

 

そんなところで

今日の日記を締めたい思います。