タイトルがやけに哲学的ですが
いつものように気楽にお読みください。
まず、結論から先に書きますと
『自分とは○○です!』という明確な答えはございません。
あしからず。
わたし「みうらじゅん」さんが大好きで
その中でも「自分なくし」をテーマに講義をした動画が最高です。
ぜひ見てみてください。
(「最後の講義」 「みうらじゅん」 で検索すると出てきます)
よく若者で
自分探しの旅とかしちゃって
そもそも「自分」なんて厄介なものを求めるんじゃなくて
いっその事 手放してはどうか。
煩悩を薄めていってはどうか。
的なおはなし。
その中にも出てくるし
平野啓一郎さんの「分人」という考え方にも似てるのですが
要は、本当の自分の唯一の人格なんてものはなくて
友達Aさんに対する自分(もしくは、友達Aさんが思うわたしの人格)
友達Bさん、友達Cさん・・・・・
子供たち、親、兄弟、親戚
パートナー、職場の上司や同僚
偶然、電車で居合わせた人などなど
さまざまな人々との関係で
そこに生じる人格(変化もする)を集めると
自分って事になるんじゃないかっていう話なんです。
逆を言えば
この地球上にもし自分しか生きてなかったら
人格なんてものがあるのかどうか。
誰かを羨ましいとか
自分の事を自慢したいとか
怒ってみたり、好きになってみたり
いろんな感情は自分以外の対象があって
自己承認欲求とか自己顕示欲など
生じるものなのかもしれないなと思います。
生まれたばかりの赤ちゃんは
本能(食べる・眠る・排泄するなど)以外は
羨んだり、得意がったり、意地悪したりしないですものね。
痩せてて美しい方がいいとか
学歴や収入が高い方がいいとか
健康で長生きがいいとか
家族は大事だとか
結婚して子供を授かるのが幸せだとか
本当に自分でそう思っているかどうかは疑わずに
思考停止状態で世の中の通念や常識が
自分の価値観だと思ってしまう事って多々あります。
かといって
朝目覚めた瞬間から夜寝るまで
洪水のように情報が流れてきて
その中を行ったり来たり漂って生きてるわけですから
それぞれの事象に自分でいちいち「これだ!」という
考えや判断をしていたらヤられます。(ヤられる→殺られる)
私の学生時代は「個性」が求められていた気がします。
「個性=自分らしさ」を強めることで
受験や就職での面接でいかにアピールできるかが
成功する秘訣みたいな風潮がありました。
でもさ、会社って意外に
体育会系出身の理不尽な縦社会で揉まれても
「ハイ!」と言って従う従順な人を好んだりするもんだし
「個性」が「わがまま」「面倒臭いやつ」に変換されちゃう傾向も
否定できないなって思います。
それに、協調性があって
みんなとうまくやって
個性とかいらんから、コツコツ仕事する人だって
必要ですよね。
だから、「自分自分自分自分」言い過ぎなんじゃないかなと思うわけです。
何人かの人には話した事があるのですが
ブログでもSNSでも余り好んで言いたくない事を書こうと思います。
2年前くらいに
海外の編み物コミュニティーで人種差別に関わる議論が
さかんになったことがありますでしょう。
ちょうど その時に
ある海外のニットデザイナーさんから
「BIPOCへの差別をなくす取り組みで是非あなたの毛糸を
私のサイトで紹介させてほしい」
と打診されました。
BIPOCとは黒人、先住民、有色人種のことです。
わたしは「え?」っと違和感を感じたわけです。
よくよく見ると、彼女はメッセージをくれる20分前くらいに
私のインスタで
申し訳ない程度に「いいね!」と「フォロー」をしていたんです。
わたしは大まかに3つの事を伝えました。
『自分は政治的思想やイデオロギーを背景に
毛糸を販売する意思はないこと』
『もし単純にあなたが私の毛糸を好きだと思ってレコメンドしてくれるなら
歓迎するけど今回の答えはNOです』
『最後に、あなたやあなたの活動は悪くないけど
わたしは、あなたからのメッセージで初めて
自分が差別される(かも)対象で、そうではない(その時は白人の方)側から
手を差し伸べられる側の人間だという事を知りショックでした』
と拙い英語で返答しました。
相手も
『正直に伝えてくれてありがとう!』って返信をくれて
この件は終わりました。
何も考えずに
「やったー!有名なデザイナーさんがわたしの毛糸を紹介してくれる〜」
って思えたらもっとシンプルで楽なんだけど。
この一件もそうなのですが
自分以外の もうそれはそれは多くの他人の
価値観や考え方で
わたしの人格の一部が形成されているとしたら
それはもうコントロールができないということです 。
先の編み物業界において
人種差別問題でもう一つ疑問に思ったのが
「Silentは罪」だという主張です。
人種差別問題に対して、沈黙しているということは
「白人至上主義」に加担もしくは「YES」と言っているんだと言うのです。
それで、声をあげないSHOPやデザイナーさんがバッシングされてたり
不買運動をされたりしていたようです。
主張するのも自由の権利ですし
主張しないというのも自由の権利の一つなのではないかと思います。
ある程度 大きなGAFA(今も言うのかな?)みたいな企業は
あえて『人種差別に反対する』という声をあげて
立場を明確にする必要があるのもやむを得ないですが
個人が主張しない事で攻撃されるのは理解できませんでした。
アメリカ的考え方で言えば
「自己主張」は大切という事になってます。
「意見」を言わないなら
持ってないのと同じという価値観。
そうかな?
わざわざ言わなくても良くない?
必ずしも主張したり立場を明確にする必要があるかしら?
昨日はこう思ったけど
今日はそうは思えない
とかあるよね。
政治や事業を運営するとか
問題解決など
意見や議論が必要な場合はもちろんあるんだけど
そうではないシチュエーションで
誰かを論破するとか
攻撃って
エネルギーの無駄遣いだなと思います。
まぁ、そういう人がいるのもそれはそれでアリなのですが。
ここまで 気持ちの良くない話を書いてしまいましたが
それでも
あえて「自分」というものを
自覚したり
労ったり
癒したりすることは
時には大事だなと思います。
その場合、
生まれた環境や皮膚の色や
容姿、過去の習慣とか関係なく
もっとフィーリング的、
感覚的な観点から
「自分」というものに
触れて歩み寄ってみるのが
良いなぁと思います。
『心地よさ』とか『居心地が悪い』とか
『良い匂い』とか『美味しい』とか
『ゆったり』とか『ザワザワする』とか
そういう感じを大切にする。
頭で考えない。
わたし、オーガニックコスメが大好きなんですが
シャネルやディオールとかデパコスには
最近手が伸びなくなりました。
オーガニックやナチュラルコスメだと
効果が劇的でなくても
気持ち良いんです。
自然と手が伸びて、ケアするのが楽しいのです。
そういう風に
自分が好きなものって理屈とか理由が説明できなくても
『なんか好き♡』ってありますよね。
そういうもの集めて、点検していくと
「自分」が少し浮かび上がってきて
分かるかなって思います。
ある研究で、
目をつぶらされて
「目を開けたら赤いものを探さないでください」
って言われると
受講者は、目を開けたとたん
「赤いもの」を探しに行く。
という結果があります。
人間って「赤いもの」を探さないでと言われたら
一度「赤いもの」を探して、
どこにあるか認識して
そこから「探さない」という行為に移ろうとするんですね。
どこにあるかわからないまま「探さない」という事が
できないからです。
だから、
「ストレスを感じないようにしよう」
って唱えても
まず「ストレス」とはどのようなものか
再認識してしまうから
「リラックスしよう」って思った方が
「ストレスを感じない」行為に近づける。
「戦争反対」って言わないで「平和」って唱えた方が
実現性が高い。
みたいな観点から言うと
「自分自分自分」言って 自分ばかりフォーカス当ててないで
もっと
「調和」「融和」とか「全体」とか
そっちに意識を向けると
硬くなっていた自分が解ける感覚があるんじゃないかと思います。
感覚的に自分を柔らかく認識し
それでもって
他の人や環境にもちょうど良い距離感で
漂うってのが
わたしの「自分」の理想です。